習慣を味方につけて、わたし改革。「朔日参り」

良き習慣

「朔日(ついたち)参り」とは

毎月1日に神社へ参拝にいく風習のこと。


「ご利益」はある

神社にお参りすればご利益がある?

と聞かれれば

わたしは「あると思う。」と

答えるだろう。


今ある日常が一変するような

奇跡的なことや

素晴らしい出来事が起きたということは

わたしには特にないが。




けれど「良い気分」という

ご利益がある。






つながり=安心感

そもそも、この世界で

神とつながりを感じず生きていくのは

困難だし、リスクが高すぎると

わたしは感じている。



神といっても

便宜上この名を使っているだけで


「目に見えないけれどある力」

「わたしたちを生かす大元のエネルギー」



このようなものを全く感じることなく

生きている人がいるのだろうか?

と、わたしは思ってしまう。



もし、この見える世界の自力だけで

存在していると思い込んでいるのなら

それは、とてつもなく人生を困難にする

ように、わたしは思うのだ。


暗く、寂しく、孤独

不安、危険、虚無を

強く感じてしまうのでは?

と思ってしまう。






かといって

「神こそが!」

「目に見えない力こそが!」と

バランスを欠いて傾倒してしまうのは

これまたこの世での生きづらさを誘発し

支障をきたす気がする。





わたしが思う神とは


わたしが思う神とは

わたしたちを生かす

大元のエネルギーそのもの。


大元のエネルギーは、自在変化なので

日本古来から伝わる

八百万(やおろず)の神としてあることも

高次の存在としてあることも

そして、わたしとしてあることもある。

つまり、あまねくあるのである。





なにせ、なにか特別な存在というよりも

どちらかというと、あまりに近すぎて

そしてあたりまえすぎて見えにくい。

もしくはスルーしている。





あえて表現するのなら

心臓が動いていることは

まぎれもなく神によるものである。

が、生きている人間にとって

あまりにもあたりまえで、いちいち

「心臓動いてるかな?ちゃんと動かさなきゃ。」

と確認する必要がない。



それよりも、もっと何か重要な大切なことが

あるのだと思い込んでしまっている。



けれど、この心臓が動かなければ

その重要で大切なことなんて

本来なんの意味もないのだ。


この、とてつもなく安心できる

土台のようなもの。


それがわたしにとっての神。



そして、その土台は

いつも完璧に揃えられていて

与えられていて、守られている。


わたしはこんな風に、神を感じている。

神社

とはいえ

常にそんなことを意識している

訳ではなく、日常はだいたい

雑事に追われて過ごしている。



そんな慌ただしい日々のなかで

神を意識する

神とのつながりを感じる心を

取り戻す場所、「神社」があるのは楽しい。



心の拠り所にもなる。


普段あたりまえとして享受している

生きる土台の恩恵に

改めて目を向け感謝できる場所。



まとめ

「本当のことは誰にもわからない」

けれど、すでにあるもの。

「いのち」


ひとつの土台から派生しながら

個として生きている感覚を味わえる。




楽しい。苦しい。うれしい。つらい。

味わう自由があるのは

土台が用意されているからこそ。

そこから自ずと沸き起こる感謝。


この感謝を感じることが

この世界では、一番幸福な瞬間だと

わたしは思っている。


そして、これこそ

「ご利益」だと思っている。


そんな幸福な時間を過ごすために

わたしの朔日参りは続いていくのだ。

幸せだ。

読んでくださり

ありがとうございました。

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