習慣を味方につけて、わたし改革。「自分を知る」

自分を愛して生きていく

自分のことをもっと知って

わかってあげる。

不甲斐ない



自分のことをわかっているのと

決めつけているのとでは

似て非なるものと思う。



たとえば、わたしは痛みや体調不良に

めっぽう弱い。





「そんなの多かれ少なかれ誰でもだろうよ」

と思われただろうか。


確かに、人間誰しも

そんなものなのかも知れない。

しかし

わたしの身近な人間を観察していると

どうしても、わたしほどでは

なさそうに見えるのである。




落ち着いている。





一方、わたしは、痛みや体調不良に

見舞われれば、驚くべき速さで

メンタルが急降下する。





大袈裟に聞こえるかも知れないが

すぐに「人生終わった…」と

思ってしまうほどである。





順調に行っていた物事が

トラブルなんぞに

見舞われてしまった時も、すぐに

「お先真っ暗」なんて思ってしまうのである。








昔から、オーバーリアクション気味だと

笑われることがあったが

当の本人は当然

芝居をしているつもりはない。




それでも半世紀近く生きてきて

一呼吸入れる技や

大丈夫大丈夫と

心を落ち着かせる技などは

習得してきたつもり。







けれど、決まって抜き打ちテストのような

痛みや体調不良などへの咄嗟の反応は

いつも、うろたえるばかりで

上手くいった試しがない。




これは、もうどうやら

わたしのDNAレベルで

組み込まれているどうしようもない

代物であると決めつけたいほど。






突然の予期せぬトラブルや痛み

病気などによるメンタルの急降下は

決して心地良いものではなく


これまで積み上げた実績めいたものを

一瞬で更地にしてしまう感覚を

もたらす威力がある。




恐るべしメンタルジェットコースター。








こんな風に

「自分はなぜこうなのだろう?」

と不甲斐なく思うことが

一つや二つあるのは

わたしだけではないだろう。


ごまかさない



しかし、不甲斐なさを

無理矢理、無かったことにしたり

こんなもんでしょ?と妙に開き直ったり

気にしたって仕方ないと

軽く扱うフリをして

つまりは、ごまかして

腹の底に沈めてしまうのは

逆効果だとわたしは思う。





一時はその腹に押し込めた自分自身に

いずれは無意識下でコントロール

されていくのだから。



そして、表面上、取り繕うことばかりに

エネルギーを使うので

人生全般が

なぜかしんどい、つまらないと感じたり

自覚のない自己否定によるイライラや

虚無感がつきまとうのでは?と

わたしは思っている。







自分を知って、受け止める

歳を重ねれば、自分のなかに

なんとなく同じパターンで繰り返される

気分や行動があるのに気づく。



その時、一度は

その自分から少し距離を取り

俯瞰してみることがとても有効に思う。





たとえば、わたしの場合。

痛みや体調不良が起こった時に

急降下するメンタルから距離を取って

自分を見てみる。



すると、実際は

痛みや体調不良のしんどさにだけ

うろたえているわけではないことがわかる。



急降下するメンタルの下に

何かがある。




いったい何があるのか?







見ていくと、「恐れ」がある。



そして「恐れ」の下には

悲しみがあった。






幼い子供の頃

自分が痛みを感じても

たとえ熱が出ていても

それそのものに対しての

不快さを訴えることはあっても

「これでわたしの人生は終わるの?」といった

恐れなどなかったと記憶する。




ところが、物心ついた頃から

母が病気がちで

いつも眉間に皺を寄せた顔をみて

育ったわたしは、漠然と不安を

感じていたのだろう。



そして、母を失うかも知れないという

恐れもあったのだと思う。


実際、母は、わたしが26歳のとき

57歳の若さで他界した。



わたしの痛みや病気に対するメンタルは

深い悲しみを土台に、さらに不安定になった。





つまり、わたしのなかで

痛みや体調不良=不安、恐れ、悲しみの始まり

であり

痛みや体調不良=そんな時もあるさ。時がくれば治るし。

という前向きなものではなかったのだ。



痛みや体調不良に

紐付いている感情が

激しく揺さぶられる結果

わたしのメンタルは急降下するのだ

ということがわかった。




これが「わかった」ということは

お宝を発掘したように

非常にラッキーなことなのだ。








なぜなら、今度からは

対策が取れるからである。



「痛みや体調不良が不快で

気分も落ち込むことは

人間誰しもあること」を前提とし


さて、わたしはどうする?


もちろん、これまで通り

メンタル急降下「人生終わり」を

味わうも良し。



もしくは、そんな思いで苦しむ自分に

やさしく声をかけてあげるも良し。



「わかる、わかるよ。その気持ち。

そりゃ、そうなるよ。恐かったんだから。

悲しかったんだから。」と

とことん寄り添って

慰めてあげればいいのだ。



気が済むまで。






そうすれば、不思議と急降下した

メンタルは回復し始める。



「今は辛いけど、今までも

回復してきたんだから

今回だって、大丈夫だ。

そこまで怖がることはないさ。」

という気持ちになれたりもする。



自分を知ることは愛である



自分を知るとは

自分の内側にあるものを

見て留めることである。



そして、できるなら「あってよし」と

受け止めることができると

心は随分と軽くなる。



もっと、できるなら

その内側にあった思い込みの

嘘を見破ることができたら

爽快でさえある。






このことは、わたし自身の体験として

実感している。


自分を知ろうとすることは愛であると

わたしは思う。


特に、自分よりも他人を優先しがちな

やさしい気質の持ち主には

人生を楽にするのに、とても有効に思う。



自分のことは、知った気になったとしても

全然まだまだということは言わずもがな。



わたしはこのことについては

底はないと思っている。


腹の中が、ひとつクリアしても、また次がある。

そして、またひとつ、またひとつと…。



それは、きっとこの世を去るまで

続いていくであろうが

あきらめずにやっていけば

人生がどんどん身軽に

愉しくなっていくのがわかる。


読んでくださり

ありがとうございました。

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