習慣を味方につけて、わたし改革。「いくつになっても因果応報は攻略できず」

良き習慣

良い種をまけば
良い実りを収穫することができる。


こんなシンプルなことなのに

わかっちゃいるけど(わかってない?)
これがなかなか難しい。

このブログでは
怠け者だったアラフィフのわたしが
良き習慣を身につけ
たら
人生どう変わるかを自らの体験を元に発信しています。

これまでの人生経験で得た
わたしの考えや思いも発信しています。

読んでくださる方の参考になれば幸いです。


 

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自分の蒔いた種を刈り取る?

人生は「自分の蒔いた種を刈り取る」
と聞いたことがあります。

仏教で言うところの「因果応報」です。






良い種を撒けば、良いことが
悪い種を撒けば、悪いことが
花咲き実るのは自然の摂理のようです。



良い花を咲かせ、素敵な実りを収穫したいなら
良い言葉を使い、良い心で、良い行いをすれば
いいらしい…

というのは、おそらく小学生でもわかる話でしょう。




わたしも理屈としては、とてもよくわかります。

ところが、残念ながら
わたしは賢くないのか
はたまた細かく考えすぎるのか

この良い種というのが本当の意味で
理解できていませんし、実践も伴いません。


50歳になった今だって。









どんな種蒔きましたっけ?

大人になればなるほど、この良い行いの分別が
難しくなるのは、わたしだけ?…
ではないと思いたい、わたしがいます。








子供の頃の、大人から教えられた
良いことや悪いことの区別はつきますし

また、自分の良心に従った
良いことや悪いことの区別もつきやすいです。








ところが、収穫という「結果」から
自分の行いを省みると

たちまち、良い種と悪い種の
分別がつかなくなるのです。


殊更、悪い種が実り、収穫せざるを得ない時には

「一体、わたしが何をしたというの?」
と、全身全霊で抵抗(文句)したくなるのです。






わたしの日々の生活の仕方に
悪い種を蒔いている時がある?

わたしの言葉、行動で
悪い種を撒いてしまった?

はたまた、誰にも知られないが
自分には全部バレている
考えることや感じていることに悪い種があったのか?







こんなことを考え始めると

一体全体、どこをどう改善して
悪い種が花咲かぬよう、実らぬよう
気をつければ良いのか

さっぱりわからなくなるのです。









良き種を蒔きたい欲まみれな自分

例えば、わたしの歩く道すがら
ティッシュゴミが落ちていたとします。

わたしは、そのゴミに(運悪く?運良く?)
気がついてしまった。





わたしは、ゴミは拾ってゴミ箱へが
良い行いとして一応インプットされている。



しかし、わたしは知っている。

この先にゴミ箱がないことを。


もし、拾ったなら、そのティッシュゴミを
ずっと持ち歩かねばならない。









ここで、素直にティッシュゴミをつまみ拾い
ゴミ箱に遭遇するまで持ち歩くのが
良い種を撒くことになるのか?







それとも、今このゴミを拾いたくない。

得体の知れないティッシュゴミを持ち歩くのは
この時期リスクが高い。

そして、少し迷ったのち
「今日ぐらいは…すまぬ許せ。」と通り過ぎる。

などと、自分の都合を優先して
ゴミを拾わなければ、悪い種を撒いたことになる?







そして、この撒いた種は
わたしはいつ刈り取るのだろう?

しかも、どんな形で?

この例えのわたしの行動は
わたし的には、良い結果と悪い結果の
両方の可能性がある。

ということは、ドローなのか?

ドローということは
現実には何も起こらないということなのか?
うーむ。







ティッシュゴミを拾う→良い行い
→良い実りを収穫

ティッシュゴミを持ち歩く→風邪を引いた
→直感に従わず悪い実りを収穫



ティッシュゴミをスルー→悪い行い
→悪い実りを収穫

ティッシュゴミに近づかず→感染を防いだ
→自分を信じた良い実りを収穫

まるで、人間万事塞翁が馬である。




ここではっきりしたことは

結局、わたしはわたしのために
都合よく考え行動しているだけで

純粋に良い行いをしようとは
思っていないこと。




そして、ゴミがあるから拾うというのは
たった今のシンプルであるがままの行為に対し

後者のごちゃごちゃした考えは
わたしの頭の中だけで起こっている
今のことではない、ただの未来予測なのだ。





改めて、わたしは自分への執着と強欲さを
感じるのである。










自然の摂理は実にシンプル

と、まあ、わかるようなわからないような
例えでしたが…

良い種を撒けば、良いことが
悪い種を撒けば、悪いことが
という自然の摂理には

一切の忖度がない、そんな気がしています。




人間が行いを考える上で
便宜上、良いと悪いを区別した種に
例えられているだけで

自然の摂理的には、そのままのことが
当たり前に実るだけの話なのだろうな〜
とは、うすうす感じています。


ゴミを拾えば、そこがスッキリするという結果。
ゴミを放置すれば、そこは汚れていくという結果。

実にシンプルな実りです。






厄介なのは、自分の考えやその時々の都合です。



ほぼ「わたしにとって」という自分都合で
考えていることを、わたしは忘れてはいけないと
思っています。

例え、人のことを思ってのことでも
元を辿れば、必ず自分の思い通りにという
思いがあることがわかります。

それが、悪いとは思いませんが
人間たるもの、そんなものだろうと思いますが

そんな自分の欲から一瞬でも離れることが
できたら、どんなに清々しいだろう♡とは思います。








タイムラグが余計にややこしくする

それにしても、撒いた種が花を咲かせ実り
収穫するまでは、タイムラグがあるでしょう。

このタイムラグが厄介なのか
はたまた、お慈悲なのか?は、わかりませんが

わたしはこれからも、度々
「わたしが何をしたっていうの!?」と
叫ばざるを得ない、状況に陥いることでしょう。








そういえば、昨日出かけたとき
わたしの行く手が工事中だったため
枯れた草が生い茂るルートを選択しました。

すると、枯れた草の小さな枝やら実やらが
わたしのニットワンピースやタイツに
これでもかというくらい
刺さったりくっついたりしてきました。



「いたっ!痛い!」とひとりごちながら
それでも頑張って、枯れた草が生い茂る
ルートを進めば…


そこは行き止まりでした…。


「一体、わたしが何したっていうのよーーーー!!!」







「え?どれ?どの時のどの種よ???
さっぱりわからん!!
一切、記憶にございません!!」


「ちっくっしょー!」




今日は
因果応報を攻略しようという欲に駆られる
わたしを発見したというお話でした。

 


今日も、お読みくださり
ありがとうございました♡


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