習慣を味方につけて、わたし改革。「習慣を味方につける?」

自分を愛して生きていく

 

わたしは、今年に入ってから

「良き習慣」を身につけることで

自分がどう変化していくかを実験感覚で

楽しんでいるところだ。



ズボラ人間だからこそ

早寝早起き、トイレ掃除

床拭き、水回りの掃除

「ありがとう。あいしてる。」を1日1000回

レイキの呼吸法、遠隔ヒーリング

テレビ体操、予算内での食費のやりくり

などなど…。




多少の時期のズレはあるものの

これらは、着実に習慣になりつつある。






習慣になるとは、その時間になれば

勝手に体が動くようになる

それをやらなければ落ち着かないといった

自動装置を発動するようになることだ。



日常の中での

「ああ、あれもこれもやらなきゃ」という

面倒くささや

無理無理、重い腰を上げる必要がなくなる。


これが、わたしの言うところの

「楽で幸せ」。


この習慣システムを使って

自分の人生を楽に幸せにするのだ。


なぜなら、わたしの根っこはズボラだから。

楽したい星人だから。






良き習慣を身につければ

人生の時間は、総合的に見れば

全体的に心地よくなっていくもの

と感じている。




心地よくなれば

人間自ずとご機嫌になるものだ。





『人生変えたいのなら

習慣を味方につけること。』



飽き飽きするぐらい

目にする、耳にするワードだ。



(それができたら苦労しないよ。

とっくに変わってるよ。)

なんて思っていた。





わたしは三日坊主だという自覚はあった。

はじめは、めちゃくちゃ張り切る。

そして「今度こそ絶対続ける!」と心に誓うが

3日目には挫折する。



「だって」「でも」「どうせ」

という言葉を吐きながら

心はがっかりして

少し傷ついている。



(ほ〜らね。あんたはやっぱりダメね。)

無自覚に、他人にも言わない言葉を

自分には、平気で言ってる始末。






分析してみる

今、わたしの暮らしで取り入れている

「良き習慣」の一部は

過去のわたしが何度もチャレンジし

そして挫折してきた内容である。



なぜ続けられなかったのか?

そのことを分析してみることにした。


○本やYouTubeから情報を仕入れただけで

「やった」気になっていた。

つまり、この知識を手に入れたから

自ずと変化するだろうという思い込み。


知識は大いに助けになるが

残念ながら行動なしでは変わらない。


○行動とは、大掛かりな特別なこと。

結果がでなけりゃ意味のないことだという

思い込み。

行動とは地味でコツコツ。

「ほんの小さなこと」を積み重ねることだ。




○苦労は不自然。楽が自然。

自分にとっての「楽」と「苦労」を

まだ知らないでいるのは、もったいない。




○なんらかの目には見えない力が働く。

その時、はじめて人生は変わっていくはず

という思い込み。


一生待ちの姿勢で条件は悪くなるばかり。




○わたしの人生…だけど…

そのことにいまいちピンときてない。


自分の人生どこか他人任せ。

「いつか誰かが♡」と

外からくる何かが、きっとわたしを

今よりもっとステキな場所へ誘ってくれるはず

というシンデレラ症候群。



まだまだありそうだが

総合的に見てみると

つまるところ、思い込みの多さと

考えているだけで、実際に行動しなかった。


簡単に出来ることはするが

面倒なこと、時間がかかりそうなこと

努力することを避けていた。



短期間で結果が出なければ

つまり自分を楽にしてくれない

良くもしてくれない…ならば

これは選択ミスか

もしくは自分には合わないのだと

早々にあきらめた。


タチが悪いのが

自分の思い(込み)が全てで正解。

これまでの自分を悪い意味で疑わない。



確か

『今までと同じことを繰り返していながら

違う結果を望むのは狂気』と

アインシュタインは言った。


そう遠くない過去のわたしは

まさしく、そうである。






あきらめは、はじめの一歩

では、なぜわたしが良き習慣を身につけようと

決意し、これまで続けることができているのか?




それは、一言でいうと

「あきらめ」である。



あきらめとは、カッコ良く言えば

「明らかにして認める」こと。


あと数年で人生、半世紀になる。


ある時、半世紀近くも生きてきた

いい大人がシンデレラ症候群であることに

ハッと気付いてしまったのだ。



そして、自分への間違った期待を

かけていたことも。






振り返ると「何か大きなことを成すために

一生懸命生きてきた」と思ってきたが


何十年も行動している内容は

ほぼなにも変わっていないことに愕然とした。



そしてなにより

「自分は大した人間ではない。

どちらかと言えばポンコツなほう。」だと


はっきり自覚(あきらめた)したからである。







そもそも

わたしは、価値があるとかないとか

そんなこと必死で求めていたけど




そもそも

価値があるとかないとか以前に

こうやって生きているではないか。




あれ?

価値があるから生きているんじゃない。




「価値を重んじる」

人間にそんな思い込みが

あらかじめセッティングされているのか

それは、わからないけれど



わたしはポンコツでも

こうやってここで生きている。



これは価値がどうこうよりも

真理じゃないか?






ひとりごとは止まらない

そして、わたしはどこまでいっても

わたしなのだ。



これ、案外悪くない。




唯一無二のわたし。


これを知っているのは誰だ?

生まれた時から

わたしとずっと一緒にいたものだ。





そう、わたししかいない。








わたしが死んだら

わたしは生きられないのだから

生きているうちに

わたしの「生きる」をやればいい。


生きることとは

今、自分のここにある全部だ。


自分が認識できるものなんて

たかが知れているが。


人は自分の見たいものを

見たいようにしか見ないし

聞きたいことを

聞きたいようにしか聞かないのだから。


そのなかで、やってみようと思うことは

後回しせず「えいやっ」と

なんでもやってみればいいし


「小さなこと」「大きなこと」なんて

区別もいらない。



自分に多大な期待をかけることも

大きな結果を望むこともやめればいい。


わたしが最期、この「生きる」から

解放されるとき

「うん。なかなかおもしろい人生だったな。」と

思えたら、もうそれは大成功なんじゃないか?








おもしろがってみる

もっと肩の力を抜いて

なんでも、おもしろがって生きてみればいい。


苦労をおもしろがって

悲しみをおもしろがって

辛さをおもしろがる。





嫌いをおもしろがって

好きをおもしろがって

愛をおもしろがる。




痛みに暴言はいてる自分を

おもしろがって

思い通りいかない自分を

おもしろがって

ただの平凡な自分を

おもしろがる。


まあ「言うは易し行うは難し」だけど。


「あーおもしろかった」と

子供が遊び終えたときに

思わずこぼすように

最期こう言えるように生きていこう。





こんなことを思うようになったから

わたしは、これまで挫折してきた行動を

今は、継続できているのだと思う。




しかし、

(まだまだ始めたばかり。これからが見ものだよ。)

なんて、自分にプレッシャーかけすぎて

潰れないようにだけはしておきたい。



なんといっても

わたしの根っこはズボラなのだから。

楽したい星人なのだから。

読んでくださり

ありがとうございました。

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