習慣を味方につけて、わたし改革。「わたしの価値観、入れ替えるぞ」

自分を愛して生きていく

その時、価値観が露になりました。
時に、自分の持つ価値観に
攻撃されることありませんか?

このブログでは
怠け者だったアラフィフのわたしが

今から良き習慣を身につけると
人生がどう変化していくのかを実験し
その経過観察を発信しています。

これまでの人生経験で得た
わたしの考えや思いも発信しています。

読んでくださる方に
ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。


 

PVアクセスランキング にほんブログ村

その時、事件は起きた

わたしの夫は、仕事の帰りが遅いのです。

平均して午後9時前後。
これでも昔よりは多少早くなった方です。

なので、わたしは夫のリズムに合わせることなく
1人で晩ご飯を食べ、翌日に備えます。






夫も、わたしの作ったご飯を
自分で温めて用意し
テレビを見ながら食べてくつろいでいます。

そして、後片付けと翌日のお弁当の炊飯予約も
してくれています。







その日、わたしは仕事がお休みでした。

夫を見送り、簡単な用事を済ませた後は
自由時間です。

わたしは、日中ごろごろしながら
うとうとしたり、まったりした時間を過ごしました。






夕方から晩御飯の準備をし
いつものように1人で食べて、またごろごろ。

そしていつの間にか睡魔に襲われました。


目が覚めて、階下に降り歯磨きをしていると
夫が帰ってきました。

午後10時でした。

その時、わたしの心の中で事件が起きました。








自分優先 VS 自分の価値観優先

一旦、歯磨きのために起きてはきましたが
わたしは、まだ眠くて眠くて
しょうがなかったのです。

だから歯磨きしたら一刻も早く
2階へ上がって再び眠りにつきたかったのです。







そこへ夫が帰ってきました。

正直、この鉢合わせ
この時のわたしにとって舌打ちもんでした。



これが、わたしも仕事の日であれば
いつものように「ご飯食べてね〜。さいなら〜。」
と2階へ上がって、あとは夫に任せるのですが…

ほぼ1日ごろごろして過ごしたわたしは

「1日中仕事していた夫のために
ささっと晩御飯を並べてあげてサポートをするのが
愛ある行動なのではないか?」

と、言われたのです。誰に?いや、自分にです。








でも、わたしはご飯を温めて並べるのも
お弁当箱を洗ったり、後片付けするのも
その時は、嫌!だったのです。

わたしはやりたくなかったのです。








でも、
「それはどうなん?ちょっとひどくない?
思いやりが足りなくない?

夫は仕事で疲れて帰ってきてるのに。
1日中、ごろごろしてほぼ寝てたやん。
それぐらいやってあげてもいいんちゃう?」

って、言われたんです。誰に?もちろん自分に。




その上ですよ?

「やりたくないって?めっちゃ怠け者やん。
今日、なんもしてないやん。」

「てか、それで夫を愛してるって言えるの?
自分が逆の立場やったらどうよ?
やってもらったら嬉しいやろ?
てか、やってもらうやろ?」


どうですか?この正論を持ってしての
わたしの価値観からの猛烈な攻撃。







これで、一気にわたしは、イライラし始めました。


このまま夫に丸投げしてさっさと寝たい自分
VS
愛ある行動は尊いという価値観を持つ自分








この対立が、わたしをイライラさせ
そして、最終的にその矛先は…

夫へと向かうのでした。


「大体、こんな遅くに帰ってくるのが悪い。
こんな遅くからご飯食べるなんて体にも悪い。」
などなど、夫に当たりちらしました。

わたしはすっかり
夫の帰りが遅い被害者妻になりすまし

「そんなに仕事してる人が偉いの?
そりゃ夫が働いてくれなきゃ生活していけないよ?

でも、わたしだって働いてる。
わたしがいくら疲れて帰ってきても
誰もご飯を作って並べてくれたりしないやん。」

とまで、いう始末。









あらわになった模範的価値観

さて、ここであらわになったのは
わたしが無意識的に持っている
模範的な価値観です。

「仕事している人=偉い、すごい、大変。」

「働かざるもの食うべからず。」

これ、冷静に考えて見れば
「んなアホなことあるかいな。」というのが
今のわたしのオリジナルの価値観なんですよ。


でもね、模範的な価値観

つまり親や周りの大人たち
その時代の世の中の価値観って

残念ながら子供の頃にしっかり植って
しまっているのですよ。




この価値観は、あらゆるシーンを思い出させます。

妻は夫に従うべき。
女は男より3歩下がって歩くべし。
家の中で一番偉いのは父親。
仕事してるもんが一番偉い。
そんな簡単にお金は入ってこない。
仕事=苦労。
家事育児は仕事ではない。





このような価値観は、わたしの身の回りに
当たり前のように蔓延していましたし
当然、当時のわたし自身疑いもしていませんでした。

こうあるのが正しいと思っているので
このようにあることができない時に
落第するような、間違ってしまったような気分になり
まるで罪を犯しているように感じたりもしたのです。

つまりできなければ
罪悪感を持つということです。






今では当然、そんなことはないのは百も承知ですが
こればかりは一旦冷静になるまで
巻き込まれたままになってしまいがちです。


根深い模範的な価値観は、なかなか抜けず
手強いもので。


この模範的な価値観を入れ替えるには
何度も何度も、自分に言い聞かせるしかありません。


「今日生きただけで90%は成功している。
あとの10%は、やりたいことはやったか?
だけである。」と。










好んで持っている価値観

そして、もう一つの価値観。

これは、わたしが好んで持っているであろうことが
判明しました。

「やさしく思いやりのある人であれ。」

「愛は全てを超える。」
(結論。眠気さえも、越えられなかったですけどね〜)


そうです、そうです。

わたしが人から、優しさや温かい想いをもらうたび
本当に感動し、嬉しくなり、自分もそうありたいと
強く思ってきました。

そして、人間はそうある時が一番幸せであるとも
思っています。







わたしの周りには、夫をはじめ
やさしくて思いやりの深い人がとても多いのです。



その言葉や振る舞いを見るたびに
「いや〜素晴らしいね〜」と思うのです。


でも、わたしはあの人たちのようには
できない…。
冷たいところもあるし
自分に余裕がなくなったら一発で終わり…。


と、いつの間にか出来の良い人たちと自分を比べて
劣等感を持つようにもなっていたのです。









わたしは生きてきた中で
やさしく思いやりがあって愛が深い人が
素晴らしいという価値観を、自ら選び取って
大事にしていました。


しかし、近頃は、どちらかといえば
「自己中心的」に「楽しんでいる」ほうが
わたしの人生的には
非常に風通しが良いことがわかってきました。



人のためなら喜んでできる人への憧れは
止みませんし、わたしもそうありたいと
そのための努力はしてきたつもりですが
一歩及ばず…

新しい価値観へと移行しようと思います。


「まずは自分が物質的にも精神的にも潤沢になろう。
それから、自分の得意なことで人や社会に貢献していこう。」










幸せにならない価値観はもういらない

「なんでやねーん」とツッコミたくなる
古い価値観は、まだまだ根深くわたしの中にも
あるようです。








そして、それらは何かをきっかけにふと蘇り
自分を総攻撃してしまうのです。


それが、今回起きた「夫の帰りが遅い事件」…
ではなく

「自分優先VS自分の価値観優先事件」
に発展したのです。










当の夫は、なんで僕が文句言われてるのか
さっぱりわからんし
(眠かったらさっさと寝てきたらええのに〜)と
どうも納得いかんという表情を浮かべていました。







そりゃそうでしょうとも、わたしの心の中は
見えませんし、わたしの発する言葉は正論のようで
ただの八つ当たりでした。(にしても、ひどい💦)
ごめんなさい。








誰も幸せにならない価値観は
もう、わたしにはいらない。

わたしが幸せにならない価値観は
もう、いらない。


そう強く思うのでした。




いつも、お読みくださり嬉しいです。
ありがとうございました。

また、来てくださいね〜♪
コメントもお待ちしてま〜す♡

にほんブログ村 ライフスタイルブログ シンプルライフへ
ブログ村の「ライフスタイルブログ」のランキングに参加中です。いつも応援クリックありがとうございます♡

PVアクセスランキング にほんブログ村

自分を愛する大切さがわかる
わたしのおすすめの1冊です♡

「喜びから人生を生きる!」
アニータ・ムアジャーニ著

コメント