習慣を味方につけて、わたし改革。「自死について独断と偏見で語ります」

自分を愛して生きていく

自死は、やるせなく悲しすぎるけれど
「絶対ダメ」だとは、わたしは言えない

という思いがあります。

その思いを独断と偏見で書いてみます。



このブログでは、
怠け者だったアラフィフのわたしが

今から良き習慣を身につけると
人生がどう変化していくのかを実験し
その経過観察を発信しています。

これまでの人生経験で得た
わたしの考えや思いも発信しています。

読んでくださる方に
ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。








自死に至るまで

自分のことが嫌いでたまらない。

自分を消し去りたい。


苦しすぎる状況から逃れたい。解放されたい。

そう思うに至るまでに、どれだけもがいて
どれだけ頑張って努力をしてきただろう

と思うのです。



自分を嫌いにならざるを得ない自分であることに
どれだけ傷つけられてきただろう。




それを思うと、単純に
自分を好きになればいいとか
その努力をすればいいとか

そんな簡単なことではないのだろうと
わたしは感じるのです。

(とても大切なことだけどむずかしい。
むずかしいけれどあえてできると
言いたいジレンマはあります。)




深い深い傷と悲しみ
そんな自分から逃れられない
手に負えない大きすぎる恐怖。

誰の励ましや、なだめる言葉もかすらない。

そんな心になってしまう。

そういうことが「ある」と思います。



そして、そのことについて
一番悩み苦しんでいるのは当事者だと思います。


わたしの思い

だから、わたしは、まず

「その悩みは正当である」
「その苦しみは間違いではない」

と言いたいのです。




ただでさえ苦しい時に
苦しむことへの罪悪感
悩む自分を否定してしまうことで
生まれる二重三重の苦しみを剥がしたい。





その上で

「でも、それは不毛なことです」
「だから、1ミリずつでもそこから
離れましょう」


と言いたいのです。






わたしは、まず

「あなたのせいではない」

と言いたいのです。


その上で

「あなたにはそこから離れられる力がある」

と言いたいのです。











わたしの経験


わたしの弟が自死した時に

わたしは自分の間違いに気づきました。


人は生まれてきて、その存在があるだけで
愛される価値があると知っていなければ
いけなかった。


もっと早くに、もっと明確に
もっと具体的に表現として
その愛を示さなければいけなかったのに

わたしは

思いは言葉や態度にしなくても
伝わると思っていたし


それは時々あればよくて
日々の暮らしに根付かせるほど
毎日表現しなければいけないものだとは
思っていなかったのです。



わたしの間違いは
一番身近にいる
一緒に生きてくれる人に
「ありがとう」と「愛してる」を伝えず
当たり前のこととして扱ってしまったことです。




残されたわたしは

(なぜ?)
という一生かけても答えのない問いを。

(もしも、あの時…)
という一生消えない焼けるような不毛な心を。

それらを一生背負って
生きていくという覚悟を持たざるを得ない
いう形で、心に折り合いをつけました。


なぜなら、残されたわたしは
生きなければいけないから。









あなたがいるとわたしはうれしい

弟が死ぬ前に残した遺書にもならないメモに
こう書かれていました。

「◯◯姉ちゃんが、唯一の光でした。」

わたしは全然良い姉ではなかったのに。


ただ、その当時、母を亡くしたことと
出産育児の大変さから、わたしも苦しんでいました。


そして自分に向けた言葉でもあった

「そのままでいいんやで。
よくやってるやん。なんにもあかんことない。」

と弟に電話で言ったことを覚えています。


その言葉を聞いた弟の心が
はっ!としているのが
電話越しに伝わるのを感じたのを
今でも覚えています。




死ぬほど辛いのに
そのことを一人きりで背負っているのに

「死なないで」と言いたくても
言葉にできない…。


ただ、わたしが言えるのは
「あなたがいるとわたしはうれしい」
ということです。


いてくれると、うれしい。
いてくれたら会えるから、言葉を交わせるから。
触れられるから。


あなたの存在が、わたしに力をくれているから。


これは理屈ではない。
感情でもない。

わたしにとっての真実なのです。









わからないから自分で決める

どんなメカニズムで、自分のことが
嫌いで許せなくなってしまうのか?


万が一原因があるにしても
そんなことは紐解こうにも無数すぎて

そして、一体どこまで遡れば
それは見えてくるのか?

そんな途方もないことは
不可能に近いとわたしは思うのです。

「死」において、本当に選択などあるのか?
ましてや正しさや間違いなどあるのか?


唯一わかる気がするのは
「死」は、自分のものではなく
自分の愛する人のものであり


そしてそれは、ただ「悲しくて、さみしい。」

けれど愛する人の、その死に際さえ
愛したいのだと、わたしは思っています。














そして、生まれてここにいることが
もう、それがすでに正解なんだ!

と、わたしは思っています。



どうせ、生まれてきて生きるなら
同じ生きるなら

だったら、幸せに生きる。

自分を大切にして生きていく。

一生かけてでも
どんな自分であっても味方であり
愛して生きていくんだ。

と、わたしは決めたのです。







まとめ

「自死」について、わたしの全くの
独断と偏見で語ってみました。



自死した弟を
間違いだなんて責めたくない。

ただ「そうせざるを得ないほど…」
と思えば、胸が痛くて涙が出るだけです。


してはいけないことと言うのは簡単で

罪なことと決めつけて
死んでしまってからも、なお苦しめたり
悲しませたりなんかしたくないと
わたしは、思ってしまうのです。


自死について、わたしは決めない…。



けれど、わたしの中で
弟の持っていた苦しみと
わたしの苦しみは終わらないし
わたしの生きていく中で続いていくでしょう。


そして、それを考え、それに迷い
それを背負いながら
わたしは幸せになると決めています。


生まれてきた理由はわからないけれど

今、ここにいる「自分」は
当たり前の存在ではなく

とてつもない奇跡の集まりで
つながっている大切な存在であることは
違いないと思います。


それに気づいていなくても
たとえ気づかなくても

どんな人であっても
誰かの大切な人だから。





お読みくださり
ありがとうございました。




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