習慣を味方につけて、わたし改革。「許せなくても良き良き」

自分を愛して生きていく

わたしが以前、勤めていた仕事場を

逃げるように辞めるきっかけになった

クレーマー客との、まさかまさかの嫌な再会。

何年経っても、蘇る恐怖

わたしは、ショックで体が固まり
身動きが取れないし
喉がカラカラになり、頭もうまく回らない。






そのクレーマー客は、獲物を見つけたように
近づいてくる。


わたしの最優先事項は
自分を守ってあげることなので

男性社員に対応を代わってもらい
ことなきを得た。


で、めでたし、めでたし。

で終わったら、なんの苦労もない。



普段は、とっくに忘れていても
そのクレーマー客と対面したとあらば
記憶は体で蘇る。


そこから思考と感情とトラウマが
わたしの中で、一気にぐるぐるし始め
苦しめるのである。







出来事自体にはメリットしかなかった

そのクレーマー客がきっかけで辞めることに
なったけれど
実はそこには、多大なメリットがあった。


辞めたことで、結果
わたしの人生は、ステップアップしたのだ。


再就職先の職場は
自宅から近いし、人間関係にも恵まれ
労働条件も申し分なく
わたしの大好きな仕事内容でもある。









あのクレーマー客との一件が無ければ
わたしは、以前の職場を定年まで
辞めることはなかったと思うが

当時は人間関係に辟易していたし
正直しんどかった。

一見、記憶から葬り去りたい
嫌な出来事だが

実は、わたしの人生的には
プラスになる方向へしか動いていないのだ。





許せないことは損なのか?

だからと言って、その出来事を
オールOKにするなんてのは
わたしの器量じゃ無理。

というか
わたしの出来事への良き解釈と
トラウマや怒りは
また別問題のようだ。

(なんで、こんなところで会うんだ?)

(なんで、まだ元気なんだよ。)

(この再会は何を意味するの?)

(わたしの中の何が原因?問題?)


頭の中のおしゃべりは止まらず
再び嫌な思いをさせられたという
猛烈な怒り。

そう、怒りが止まらない。








「くそぅ!なんであんな奴が
わたしの世界に、のうのうと現れるんだ!?」

「悔しい…。」









ほんとに、ほんとに嫌でたまらなかった。


でも、嫌だったね〜で終われない
このねちっこく、くっついてくる
「もやもや」や「悔しさ」はどうしたらいいのだ。



根深く恨み節のわたしは
損をしている気がするのに
なかなか怒りは止まない。






ねちっこく消えない怒りへの対策を考える

なかなか怒りが、払拭されずに
不快な気分を抱えているのが嫌で
自分なりの対策となる考えを
編み出そうと試みた。


対策その1

そうだ、記憶が薄まるまで待とう。








わたしはすぐにスッキリしたくなるタチだ。

なぜなら、わたしの貴重な幸せな時間を
不快な感情に支配され続けるのは
非常にもったいないと考えるからである。



でも、いい案が浮かばない…。



いや、ちょっと待てよ。
今日は、昨日より、そのことについて
考えたり、嫌な感情に支配されることが
少なくなっている。


こ、これは!
か、確実に、記憶が薄まってきている!




これは使えるかもしれん。

名付けて「記憶、薄まるまで待とう」作戦だ。


それまでは、我慢を強いることになるが
わたしよ、許しておくれ。




記憶がなくなるわけではない
ただ、泥が沈澱するような感じなのだろう。


そこを刺激される何かが起これば
再び、同じ怒りを繰り返すだろうが
致し方ない。

これはゆっくり効いてくる
痛み止めのような作戦なのだから。





対策その2

う◯こ」を持っていることを自覚する。


その許し難い、瞬発的な怒りを伴う記憶。

それが無ければ、わたしの人生
もっとイージーモードだったはず…。



そう思うのに、なかなか手放せない。



それは、まるで「う◯こ」を
握り続けているようなものなのに。







『先生!この「う◯こ」手放したいのですが
やり方がわかりません。』

という質問を投げかけたい。

でも、先生は答えるだろう。

『その握りしめている拳を開くだけです。』と。



『グーからパーにするだけ?

そんな簡単な方法で、手放せるなんて
ふざけんじゃねー!

この「う◯こ」のために
わたしの命の四半世紀は、使ってきたんだぜ!

そんな簡単でいいわけねー!!』


そんな、やり取りが思い浮かぶ。










そう、つまりわたしはその「う◯こ」を
持っていたくはないけど、持っていなきゃ
やってられない自分なりの事情も
加味してるのだ。


と、いうかそもそも、それが「う◯こ」には
見えないし、思えない。


実際は、悪臭を放つ「う◯こ」を
握っていたとしても
当のわたしには、そうは映っていないのである。


何か、こう自分を守る重要な鍵のようなものを
握っている気になっているのだから。










これは、厄介だ。



本当に手放そうとするなら
まず、それは重要でないこと
そして悪臭を放つ「う◯こ」であることを
(つまり今の自分にとって役に立たなくなったもの)

自覚する必要があるのだ。



とはいえ、大切なのはここからだ。


わたし的には、それが

「う◯こ」であると自覚しても

「重要な鍵」であると思い込んでいても

どちらでも良いということだ。



わたしはこれを「う◯こ」と思えるから
すごいのでも、えらいのでもない。


ただ、そう思えたら、おもろいだけだ。


そう、この後生大事に握ってきたものが
「う◯こ」だとわかることほど
衝撃的に笑えることはない。


ただ、本気でそう思える時まで
悪臭放つ「う◯こ」を
握りしめていれば良いじゃないか

と思う。


おそらく、本気で「う◯こ」と思えた時には

そっこー、超そっこー
グーからパーにしているはずだ。








まとめ

人生いろいろだ。


自分が紡いできた好みのストーリに
思わぬ登場人物が現れ
劇壊しされる可能性だってある。


しかし、その登場人物がわたしの作る
ストーリーに責任を持ってくれるわけもなく。


さっさと、場外へつまみ出せればいいが
なかなかそう簡単にいかない。


そんな時

「自分が悪かった」

「自分の解釈がおかしい」

「自分の学びのためだ」

などなど、こんな省みるという偽善に
飲み込まれている場合やないのである。


なんて偉そうに言いつつ
わたしは、そっこー飲み込まれるタイプだ。






でも、よくよくお考えなされ。

「あなたの何が悪いのさ?」

「あなたの解釈は自由なはずじゃね?」

「あなたが凹み続けるような学びなんて
そもそも学びのふりした「う◯こ」じゃねーか?」

と、わたしは言いたい。



そして、それは

「ただ、経験があった。」

それだけのことではないか?



う◯こを握りしめる経験をした。

う◯こだと途中で気づいて
そっこー手放すという経験をした。


自分のした経験に
いちゃもんつけてないで

「えらい、えらい。

よく耐えた、頑張った。」と

言ってあげよう。






そして明日からも

ブログで「う◯こ」を連発した
自分を愛して生きていこう。


生きているって、それだけで
本当によくやってるよ。100点!!

もっともっと幸せになろう!



読んでくださり

ありがとうございました。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ シンプルライフへ
ブログ村の「ライフスタイルブログ」のランキングに参加中です。いつも応援クリックありがとうございます♡

PVアクセスランキング にほんブログ村

自分を愛することの大切さがわかる
わたしのおすすめの一冊です♡

「喜びから人生を生きる!」

アニータ・ムアジャーニ著

コメント