習慣を味方につけて、わたし改革。「まずは存在自体が大切だと鵜呑みしちゃおう」

自分を愛して生きていく

生まれてくれて、ありがとう。
生きてくれて、ありがとう。
あなたがいると、わたしはうれしい。

このブログでは、
怠け者だったアラフィフのわたしが

今から良き習慣を身につけると
人生がどう変化していくのかを実験し
その経過観察を発信しています。

これまでの人生経験で得た
わたしの考えや思いも発信しています。

読んでくださる方に
ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。


 

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下腹あたりには光があるとしてみる

こんなことを想像してみました。

わたしたちの内に(ここでは便宜上
下腹のあたりとでもしておきましょう。)




めちゃくちゃ綺麗な
もうそりゃ勝手に心が動いてしまうくらい
その眩しさや美しさに感動してしまうような
光があるとしましょう。




で、その光はどんな時も変わらず
そこにあるとしましょう。


消えたり灯ったりするわけではなく
強くなったり弱くなったりすることもなく
まるで永遠の輝き。


その光には境界線はなく
あなたとわたしとの間に
物理的な距離があったとしても
その光は繋がっている。



もっといえば、今生きている命と
この世を去った命さえ繋いでいる光
だったとしましょう。


それが、誰の内にもある。

というかひとつ。



そのひとつの光が土台にあって
そこからこの現実世界が色とりどりに
派生していると考えるとします。

そのたったひとつの光が
時空を超えてどこにでも


そして誰の内にも「ある」ことを
前提としてみます。









この世界では光は隠れてしまう

でも、この世界にしばらく滞在していると
光は遠ざかったように感じ
その存在さえ忘れてしまうとします。

しかし、人間なら誰しも潜在的に
(意識しようがしまいが)
その光が欲しい、光に触れたい
光と共にいたいと思っているとします。

すると、その光の代替品として
幸せを求めるようになります。


例えば、平和、お金、愛、健康が手に入れば
まるでその光に触れたように満ちることが
できるだろうと、思うわけです。



ところが
あくまでも代替品は光のレプリカに過ぎず
その輝きは持続しません。


しかし、この時はすでに
わたしたちは
レプリカを本物だと認識しているので

光の存在を忘れ去り、レプリカを追い求めて
さまざまな苦しみを展開していきます。








「とにかく明るい安村」さんのように

と、前置きが長くなりましたが
そこで、わたしは思いついたのです。

この、いつでもどんなときでも
自分の下腹あたりに光がある前提を
鵜呑みにすればどうだろう?と。





光だのレプリカだの怪しいし
ちょっと何言ってんのかわかんないw

となるかもしれませんが



わたし的には、さっさと
この光がいつでもどんな時でも

自分の下腹あたりにあって
永遠に輝いているのだということに
したら、良いじゃんと思ったのです。







人間は、この光が見えないから
生きるって大変でしんどいのだと思うのです。

それは自分というものが
この自分の体だけの
そして自分のアイデンティティだけの存在だと
決めつけてしまうからではないかと思うのです。




で、苦しさのあまり
この光を一目見たい、触れたいと思うわけです。




でも、そもそも光をそんな特別なものに
仕立て上げるのではなく
まして外に探しにいくなんてことはやめて

芸人とにかく明るい安村さんの
「安心してください。はいてますよ。」
とブリーフを指差すように
(わからない人はググってね)

「安心してください。ありますよ。」
と下腹あたりを指差せば良いのです。

光なら、いつでもここにありますよって

で、これを前提に生きていくのです。





辛い、苦しい
「安心してください。大丈夫ですよ。」

自分のことが嫌いだ
「安心してください。ほんまは好きですよ。」

できたら、とにかく明るい安村さんのモノマネ
しながら、指差してみるともっと良いかもです。笑






いつでも100点を土台に

だってね。ここだけの話ですよ?

わたし達って、この世界の現れの限りで
あるはずがないじゃありませんか。



この世界のこれだけが真実ですって
色んな正しさを誇示したり
色んな間違いをつついたりしてますが


よ〜くよく考えれば
「んな、アホな。」ってなもんですよ。








この世界にだけ通用するルールに
しがみついてたら、そりゃしんどいですわ。

ずっと正しく生きてきたのに
散々な目にしか遭わないのは
鵜呑みする順番がちょっと違っただけなんですよ
と、わたしは思います。




だから、子供たちには
順番を間違わないように
両親や周りの大人や学校の先生から、まずは

「あなたの存在はかけがえがなく尊いものです。
そして、あなたの内にある光は永遠であり
全てにおいての本質です。

さあ、これを踏まえて人間を謳歌しましょう。」

と大前提を隠さず伝え
それから人間社会のルールを教えていけたら
良いだろうな〜?と思います。






世界の壮大なマジック無から有

わたしは常々不思議に思うことがあるのです。

わたし含め、ほとんどの人間が「死の恐怖」を
持ち合わせていて、そしてそれは「最悪なこと」と
感じています。

自分がいなくなること
つまり自分を喪失することは耐え難い恐怖であり


それは、その後どうなるかわからないと
いう不安も相まっての
ことだと思うのです。









わたしは母を亡くした約1年後に
娘を出産しています。

その時に、とっても不思議な感覚になりました。

母の死である
「ある」から「ない」に変化するときは
とてつもない恐怖と喪失感を伴うのに

娘の誕生である
「ない」から「ある」を迎えるときは
割と簡単に受け入れているなと思ったのです。


未知の世界からきた命に対しては
いぶかしげに思うことなく当たり前のこととして。



でも、よくよく考えてみれば
「え?どっからきたの?どなた?」
と警戒し恐怖を感じても(大袈裟ですが)
おかしくないわけですよ。







だって、不思議じゃないですか?
これまで無かったものが有るに変わるって。

でも、無から有になるこれって
秒単位?どころじゃないスピードで
途切れることなく繰り返されてますよね?

この逆もまた然り。







わたし…特に何もしてませんけど
展開されるこの動きは一体なんぞや?
誰の仕業じゃ?

これが、命の動きなんですよね。



目には見えないけれどあるだろう
土台の光(命)が

目に見える形で現れ消える循環と
でもいいましょうか。

つまりわたしたちの素材は
土台の光、そのものだともイメージできます。






あなたの存在も、わたしの存在も大切

ちょっと、ややこしや〜になってしまいましたが
(ややこしや〜ややこしや〜♪)



わたしが言いたいことをまとめると
結局いつもと同じです。


つまり
「存在」がめちゃくちゃ尊いということです。


自分に対しても、人に対しても
この大前提があることを思い出せるように
しておけば


つらいことやしんどいことがあっても
なんとか乗り越えていけるのでは
ないかと、わたしは思っているのです。



この真実はいつも隠され
忘れ去られています。

だから、これにとって変わる
真実らしきもの
つまりレプリカ=条件付きの価値に
振り回され、悩まされ続けます。







条件付きの価値を否定したいわけでは
ありません。

ただ、無条件の価値が土台であることを
忘れての、条件付きの価値はもろいと
わたしは思っています。



本来、条件付きの価値が崩れても
土台には無条件の価値があるのですから
価値や尊さがなくなることはないはずです。


だから、絶対大丈夫しかないのです。








あなたもわたしも大切な存在。

真っ先にそう思えたら
例え、喧嘩をしても
仲直りできると思っています。


この世界から争いは無くならなくても
互いの存在を思いやることで


仲直りして
やり直すチャンスはきっとあるはず。


わたしは、この大好きな地球とこの世界が
やさしさに包まれる未来を
意図したいと思っています。






まどさんの詩にあるシンプルな真理

最後に
わたしの大好きな詩人まど・みちおさんの
これまた大、大、大好きな詩を
ご紹介したいと思います。

ぼくがここに

ぼくがここにいるとき
ほかのどんなものも
ぼくにかさなってここにいることはできない

もしもゾウがここにいるならば
そのゾウだけ
マメがいるならば
その一つぶのマメだけ
しか ここにいることはできない


ああ このちきゅうのうえでは
こんなにだいじに
まもられているのだ
どんなものがどんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににもまして
すばらしいこととして

まど・みちお「ぼくがここに」より引用させていただきました。




この詩を読むたびに
わたしの心はとても悦びます。





お読みくださり
ありがとうございました。


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